【雑談】国家という幻想

「中国」とか「日本」とか、いわゆる「国家」というものについて、思っていることを書きます。

結論としては、「個」と「個」の交流において、国家というのは実は幻想なんだよ、という話です。

 

「中国」という言葉について

中国は広く、大きい。富めるものがいれば貧しいものもいて、都市に住むものがいればそうでないものもいる。

その姿を「中国」という一言で表すことは難しい。

政治の意思決定を行っているのは人口のほんの一部の、主に北京にいる政治家たちであって、多くの人々にとっては政治の話題などどこ吹く風だ。

「中国」という言葉を使ってその姿を表そうとする時、それは中国の一面しか表現することができない。

にもかかわらず、「中国」という言葉を安易に使い、一括りにして論じようとする言説はとても多い。

「中国」という言葉を使うとき、その言葉が北京の政治家を指すのか、巨大なIT企業を指しているのか、あるいは都市部に住む人々を指すのかを明らかにする努力と、そもそも中国は一言で語れるものではないということへの理解が必要だ。

日本に観光に来る中国語を話す人々についても、僕らは安易に「中国人」と呼び、一括りにしようとする。

しかし、そこから出発した「中国人」像は、中国に住む人々の一面を表しているにすぎない。

「中国」という言葉を使って、固定観念に当てはめていく行為は、楽だしときに面白いのだけれど、安易に「中国」像を求めようとする欲求に、僕らは抗っていかなければならない。

 

交流について

日本にずっと暮らし、外国人との関わりを持たなかった人が、初めて自分と違う国籍を持つ人と接する時、自分が日本人で、相手が外国人であることを強く意識する。

無意識の内に、相手の所属する国家に対するイメージを、相手自身に投影しようとしてしまう。

必要以上に政治の話題を避けようとしたり、あるいは政治について、双方の立場から議論を戦わせようとする。

でも、交流を続けるうちに気がつく。

国籍など人と人の交流にとって、それほど大きな意味を持たないのだ。

同じ日本の国籍を持つもの同士でさえ、分かり合えない人もいる。

同じ地域で生まれ、同じような環境で育ったにもかかわらず、国籍の違いだけで、「自分たち」とは異質のものとみなして、距離を取ろうとしたりする。

政治的な舞台で、日本や中国を背負って交渉に臨む政治家たちにとって、「国家」は重要なものかもしれないけれど、「個」対「個」の交流においては、相手の背景に「国家」を見ることは、無意味なことだ。

「人」と「人」が交流する時、必要なのは相手の考え方や人生を理解することであって、「国家」の影はその理解の妨げになる。

 

電車内でのマナーについて

日本の地で電車に乗る時、静かにしなければいけない、という暗黙のルールがある。

そのルールは生まれたばかりの赤ん坊にまで適用されて、赤ん坊が泣き出してしまった時、母親・父親はとても気まずい思いをする。

中国人が電車内で大きな声で話をしたり、電話をしていたりする姿を見て、日本に長く住む人達はマナー違反だと感じ怒りを覚える。

自分がどうしても電車内で電話に出なければならなかった時、小声で電話に出た時の気まずさを、日本の地を踏む新参者にも味わわせたいと願う。

 

中国においては、(もちろん、例外はたくさんあるのだが)比較的自由に電車内を過ごせる。

電車内で堂々と電話をする人を目にしても、気にも留めない。

いや、申し訳ない、嘘をついた。

本当は自分の周りで電話をする人の会話の内容が、気になってしまうことだってある。

恋人同士が電車内で仲睦まじくしていたら、誰だって気になる。

それでも、周りの人の自由を許すことが、自分の自由を守るための担保になるのだ。

その自由さは、少くとも僕にとっては居心地の良いものであって、日本で乗る電車の息苦しさが、僕はあまり好きではない。

 

「忖度」という名のルール

「忖度」という言葉を知ったのは比較的最近のことだけれど、この言葉を使い始めて分かったことは、日本の地に住んで僕はずっと、「忖度」を求められていたんだなということだ。

必要以上に周りの人々に気を使い、悪いことをしてもいないのに「すみません」を度々口に出し、思ってもいないのに「ありがとう」を連呼する。

それらは全て、相手が必要としているからだ。

もしかすると、自分自身も誰かにそれを求めていて、「すみません」「ありがとう」を口にしない相手に、怒りを覚えたりする。

気の知れた仲の友人や知人に、わざわざ「すみません」や「ありがとう」という言葉を投げかけることが、実は相手との距離を作るのだ。

 

忖度の形は色々なところに現れる。

例えば社内のメール。

上司にメールを出そうものなら、相手に失礼のないように、細かいところにまで気を配る。

ビジネスは戦場だ。一分・一秒の遅れが命取りになるその場面で、「ビジネスマナー」という名の忖度の化け物が、幅を利かせている。

忖度というルールが「美しい日本」を作ってきたのかもしれないが、「美しい日本で疲れた私」を量産してはいないか。

 

領土・領海・領空について

これらについて語ることは、とても勇気がいる。

1人の政治的無関心の人間の取るに足りない意見として、流して欲しいとも思う。

日本と中国という国家同士は、領土について問題があるとかないとか、双方の立場がある。

正直に言ってしまうと、行ったことも見たこともない海や島の所有権について、そんなに熱くなることができない自分がいる。

もちろん国家的には重大事なのは重々承知なのだけれど、その場所の歴史を自分の目で見てきたわけでもないし、どちらの言っていることが本当のことなのかについて、片方の意見を取り上げて盲信出来るほど素直でもない。

このことについて、上海の友人と何度か話をしたこともある。

そういう会話をするときには、向こうは中国側で、僕は日本側ということになるのだけれど、会話は大概平行線で、お互いの国家の言い分をぶつけ合うだけで終わる。

その内にその会話にも飽きてしまって、お互いが日本人で中国人であるということなど、どうだってよくなってくるのだ。

結局、最近見ているドラマの話とか、ドラクエの新作の話とか、他愛もない話に落ち着く。

「個」と「個」として相対したときに、「国家という幻想」は必要ない。

必要なのは、相手が歩んで来た人生への尊敬だ。そこに国籍は関係ない。

 

おわりに

僕の書く文章はあまり読みやすくないと思います。

最後まで読んで下さった人がいるなら、本当にありがとうございます。

もしかすると、考え方の違いがあって、不快に感じられた方もいるのかもしれません。

その時はぜひ、あなたも発信者となって、自分の意見を発して欲しいです。

インターネットの世界は、まだまだ始まったばかりだと思います。

英語や中国語と比べると、日本語の使用者は少ないので、日本語で書かれたコンテンツは意外と少ないのが現状です。

話題が専門的になればなる程、英語や中国語に頼らざるを得なくなります。

それならもういっそ日本語を諦めればいいじゃないかと思う人もいると思うのですが、僕は日本語がとても好きです。

いろいろな地域からの影響を受けつつ、変化して来た日本語には、他の言語にはない奥深さ、面白さがあります。

そんな日本語のコンテンツの海に、ちょっとでも変なものを投げ入れてみたくて、このブログを書いています。

もしあなたが、何か発信してみたいと思っているなら、なんでもいいから書き始めることです。

最初は誰にも読んでもらえないけれど、少しずつ読んでくれる人は増えると思います。

人が増えれば書きたくなるし、良い物を書きたいという欲望も起きてくるものです。

「おわりに」なのに一番長くなってしまいそうなので、このあたりで止めます。

それでは。

ぜひコメントをお願いします!

ABOUTこの記事をかいた人

上海を中心に、中国関連の気になる出来事を発信しています。時々関係ないことも書きます。学生時代に上海留学。現在は日本で会社員生活。いつか中国で書きたい。91年生まれ。