森鴎外という生き方

今回は森鴎外の魅力について語りたいと思います。

森鴎外という人物

森 鷗外(もり おうがい、1862年2月17日(文久2年1月19日) – 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部[注 1]卒業。
大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した。

《 Wikipedia より》

森鴎外が東大医学部を卒業した当時最高レベルのエリートだったことは有名な話ですね。

卒業して軍医になって、国費でヨーロッパに留学しました。

当時は外国に行けること自体、今では考えられないくらいものすごく難しいことだった

『舞姫』

ここで、森鴎外がドイツにいた頃何をしていたか分かる小説を挙げておこう

今この処を過ぎんとするとき、とざしたる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女をとめあるを見たり。年は十六七なるべし。かむりしきれを洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたるおもて、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげにうれひを含めるまみの、半ば露を宿せる長き睫毛まつげおほはれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
彼ははからぬ深き歎きにひて、前後を顧みるいとまなく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫れんびんの情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累けいるゐなき外人よそびとは、かへりて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながらわが大胆なるにあきれたり。

森鴎外は学業をすべきか、彼女を取るか悩むのです。そんなある日、仕事上の上司に聞かれるのです。一緒にロシアに行くか、と

一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦あす魯西亜ロシアに向ひて出発すべし。したがひてべきか、」と問ふ。余は数日間、かの公務に遑なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」

仕事を取るのか、彼女を取るのか、選択を迫られます。

最終的には、仕事を選んだのです。

『舞姫』の冒頭部分がわたしはとても好きで、何度も読みました

石炭をばや積み果てつ。中等室のつくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈しねつとうの光の晴れがましきもいたづらなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば。

噛めば噛むほど旨味の出て来る文章だと思います

現代の文章は話し言葉と同じ言葉で書かれますが、この時代は未だ、文章を書くための言葉がありました。特に、文書を残さなくてはいけない役人は、この言葉を扱えなければならなかったし、書き言葉を扱えるということ自体、インテリであることの証でした。

その後の鴎外は、ひたすら出世街道を進みます。

50歳~亡くなる60歳までに書かれた作品が、大変に素晴らしいです。

『高瀬舟』

高瀬舟たかせぶねは京都の高瀬川たかせがわ上下じょうげする小舟である。

とても有名な作品ですね。

文章が『舞姫』よりも読みやすい。この時代の作品は、小説を口語体で語ることが一つのテーマになっていました。ほとんど現代の言葉のように読むことが出来ます。小説は時代とともに大きく変わっていくのです。

読みやすいですし、非常に考えさせるテーマを内包した小説です。

庄兵衛の心の中には、いろいろに考えてみた末に、自分よりも上のものの判断に任すほかないという念、オオトリテエに従うほかないという念が生じた。庄兵衛はお奉行ぶぎょう様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらにふに落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。

次第にふけてゆくおぼろ夜に、沈黙の人二人ふたりを載せた高瀬舟は、黒い水のおもてをすべって行った。

「オオトリテエ」はauthority(権威)のことかと思われます。

役人として勤めながら、自分と主人公の姿を重ね合わせながら、この文章を書いていたのではないでしょうか。

森鴎外の作品が、現代に至っても色あせることがない理由は、そのテーマの中に、私たち現代人が未だに持ち続けている問題意識をはらんでいるからではないでしょうか。

『山椒大夫』

正道はうっとりとなって、この詞に聞きれた。そのうち臓腑ぞうふが煮え返るようになって、けものめいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。たちまち正道は縛られた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏うつふした。右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏したときに、それを額に押し当てていた。

この小説もものすごいエネルギーを持った小説です。何度読んでもすごい。

追ってから逃げる母子3人が、人に騙され、母と子供二人離れ離れになってしまいます。

子は何年もした後、姉が自分の身を犠牲にして弟を逃します。弟は母を探し続け、とうとう探し出すのです。

この小説は、社会の不条理を描いた作品であると思います。社会の不条理の中でも、強く希望を持ち続ける「個人」の強さを描いているのだと思います。

『大塩平八郎』

連年の飢饉、賤民の困窮を、目をふさいで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置にたひらかなることが出来なかつた。《中略》すこしの米を京都におくることをもこばんで、細民さいみんが大阪へ小買こがひに出ると、捕縛ほばくするのは何事だ。おれは王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。かみ驕奢けうしやしも疲弊ひへいとがこれまでになつたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以てせば、これが人世じんせい必然のいきほひだとして旁看ばうかんするか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人をちゆうし富豪をおびやかして其私蓄しちくを散ずるかの三つよりほかあるまい。おれは此不平に甘んじて旁看ばうかんしてはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のためにはかつてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\誅伐ちゆうばつ脅迫けふはくとによつて事をさうと思ひ立つた。「大塩平八郎の乱」を、日本史を習った方なら覚えているかと思います

大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)は、江戸時代天保8年(1837)に、大阪(現・大阪市)で大阪町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱である。大塩の乱とも言う。旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱16371638)以来、200年ぶりの合戦であった。

《 Wikipedia より》

鴎外は、やはり社会に対して行動を起こす「個人」を描いています。鴎外自身、自分の目で西洋の個人主義を見てきました。日本での生活、「世間」や、封建主義的な「権威」というものに対して感じるものがあったのではないかと思うのです。

森鴎外という生き方

森鴎外は自ら役人として仕えながら、その胸の内には社会に対して、問題意識を持ち続け、書くという行為をもって社会に訴え続けたのでした。

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上海を中心に、中国関連の気になる出来事を発信しています。時々関係ないことも書きます。学生時代に上海留学。現在は日本で会社員生活。いつか中国で書きたい。91年生まれ。