読みたい本がないなら自分で書くしかないでしょ

今日も会社で消耗してきました。

これが平常運転でございます。

本が読みたい。

心が鬱々としている時、本を読みたくなるのは僕だけでしょうか。

特に、哲学とか評論とか歴史とか、割と重めの内容が好きなのです。小説でも、長ければ長いほど良し。「失われた時を求めて」なんて、名実ともに世界最高の文学なわけです。

僕の場合、子供時代から大学生活を通じて、9割がた鬱々としていましたから、部屋に本ばかりが山となって積まれていました。

引越しの際にそれらの多くを処分したのですが、この最近の僕の鬱々マイブームの高まりに応じて、また読書欲求が首をもたげてきたのです。

本が見つからない。

今日も仕事帰り、家の近くの割と大きい本屋さんに寄って、心の底から読みたいっ!と思えるような本を探してみたのですが、うーむ、どれもピンと来ない。

本を読みたいのに見つからない状態というのは、例えばこういうこと。

あるヘビースモーカーがどうしてもタバコが吸いたくなった。ポケットにタバコはあるのだけれど、喫煙所が見つからない。「いっそこの場で吸ってしまおうか」そんな風に考えている。

そんな状態である。

脳が読書を欲してやまない、言わば読書中毒だ。

読みたい、と思える本を探すが見つからない、時計を見る。30分、1時間と時は無情に過ぎて行く。そのうちに閉店の時間を迎える。僕のフラストレーションは爆発寸前。

読みたい、と思える本は必ずあるのだ。それがどんな本かは分からないけれど、心のモヤモヤを晴らしてくれる本は必ずある。

しかし読みたいと思える本がが見つからないということ、それはとても不幸なことである。僕が求める良質で、知的興奮に溢れたコンテンツが、圧倒的に世の中に足りていない。

世の中の9割の本は不要である。

これは本当のことだ。学生時代、めちゃくちゃたくさん本を読んだ僕の素直な意見だ。粗悪な本は、人から考えることを奪う。良質な本は、読者に考えさせる。それでいて押し付けがましくなく、考えることを喜びに変えてくれる。

ではなぜ、本屋に不要な本ばかり並んでいるのか。それは、1割の読まれるべき本の素晴らしさをカモフラージュするためである。なぜカモフラージュなどしなければいけないか。良質な本とは例えるなら濃いめのエスプレッソコーヒーのようなものだ。その一杯は大変に素晴らしいが、それが何杯も続いたら、さすがに目眩がしてしまう。良質な本は、その一繰り一繰りがそれほどのインパクトをもたらすのだ。

やれやれ。

結局、本屋も閉店して駐車場で一人、暗い車の中で明るい街灯に照らされている。

以前の僕なら、いつものように深いインターネットの樹海に身を投じるところだが、ブログという公開処刑の場を手に入れた僕は、読者から笑われ、さげすまれ、格好のネタとなるべく今日も断頭台に登る。

書くということ。

自分で文章を書いて始めて、書くという行為の難しさを理解する。そして実は、読むということも同じだけ難しいことなのだと気づく。普段何気なく読んでいる文章が、実は深く推敲されたものであったり、実は浅はかな推論で満たされていたり。

書くという行為は、自分の文章を読むという行為の上に成り立っている。自分が読みたい文章が見つからないなら、自分で書くしかない。書いてみて、自分の理想としている文章と違うなら、書き直すほかない。そうやって書き足したり消したりしているうちに、小説家が生まれ、評論家が生まれるのである。

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ABOUTこの記事をかいた人

上海を中心に、中国関連の気になる出来事を発信しています。時々関係ないことも書きます。学生時代に上海留学。現在は日本で会社員生活。いつか中国で書きたい。91年生まれ。